シンガーソングライター 薗部 浩昭 スペシャル


波乱万丈の人生だったけど、唄い続けることが唯一の答えだった。


「悩みを抱いたまま踊らせるのがロックンロールだ。」と言ったのは、ザ・フーのギターリスト、ビーチ・タウンゼントだった。

ロックミュージックの本質を貫いた名言だと思う。

ロックンロールを聴いてハイになっても、自分が抱えている問題から逃げられるわけではない。逆にそれを気付かせてくれるのがロックンロールの役割なのだ。

そして問題に立ち向かう生き様こそが、ロックンロールなのである。

「薗部 浩昭」は、そのスピリットを内包している数少ないアーティストである。

 

青森県鯵ヶ沢町で生まれ、ひたちなか市で育った園部の音楽の原点は、アニメソングだという。

 

「例えばアンパンマンのエンディングテーマの中で、バイキンマンと仲良く手をつないで踊っているシーンがあるんですよ。いつもは意地悪したり、敵対してるのに。 これって本当は誰もが心の中に優しさや愛情を持っているってことで、僕が今でも一番訴えたいところなんですよ。みんなに夢を与えられるような唄が唄いたいんです。」

 

夢見る力や純粋さを大きく育てていた少年に、大人の論理が立ちはだかる。

両親の離婚だった。

 

「片親だと近所で馬鹿にされたり、学校でいじめられたりするんです。そうすると悔しいじゃないですか?じゃあ何で見返すとなると、ナメられないようにしようと不良の方に入っていく事になるわけですよ。」

 

同じような境遇の仲間が集まっては、ケンカやバイクでウサ晴らしをしていた。

 

「皆が引いちゃう位やっちゃってたから。周りの親から薗部君とは遊ぶなみたいな。」

 

高校も中退し、18歳の時にある事件を起こし、県外の施設にも送られた。

 

「ああいう施設ってちょっと怖いってイメージがあったけど、実際は全然違ってた。14歳~20歳ぐらいまで60人位いて、半年過ぎると兄弟みたいになっちゃうわけ。本当は親しくなっちゃいけないんだけど朝から晩まで同室の奴とは一緒だからね。話してみると問題を起こしてきたような奴には見えなくて。俺と同じで皆寂しいんだよね。

自分が何をやりたいのか見つからないし、仲間という時間が一番楽しいから。」

 

(出院しても、2人に1人の割合で更に長期の施設に行ってしまう事が多く、構成するのも難しいという。薗部は音楽家でありながら、そんな過去の経験を活かし、いじめや非行問題についても真剣に取り組んでいる。)

 

矢沢永吉に憧れていた薗部は、出院後ベーシストの友人の家に遊びに行った所、バンドに誘われ何かに夢中になりたくて見様見真似でベースを始めた。

それが伝説のバンド「HURRY-UP」誕生の瞬間だった。本格的に活動しようとした直後、ショッキングな事件が起きた。

 

ベーシストの彼が交通事故で亡くなってしまったのだ。

 

「俺に音楽の素晴らしさと希望を与えてくれた彼と、二人でスタートさせたこのバンドを壊したくなかった。」

 

新たなメンバーを加えて再出発した「HURRY-UP」はインディーズながらワンマンライブを行い、2000円近いチケットをソールドアウトにするなど数々の歴史を残してきた。

 

「その当時はハードロックの全盛期で、俺たちみたいに8ビート中心のちょっとお笑いの入った、エンターテイメントなバンドは珍しかった。」

 

やがて関東全域に進出し、バンドの知名度も上がり、集客力もついてきた。しかし、薗部はプロの目線から見たらどうなのか疑問に思い始める。

そんな時、某メジャーレコードのオーディションに出てみないかと誘われる。

 

「結果は惨敗だったけど、それより出来レースだと分かってかなり落ち込みましたね。優勝するバンドが決まっていたなんて純粋に頑張っている他のバンドも可哀想に思えて、さらに大人が大嫌いになりました。

そのオーディションには落ちたけど、後日、薗部君だけうちに来ないかって言われて。

もちろん断りました。行きならメンバー全員で3食昼寝付き、都内にマンションと車を用意してって思い切りデカイこと言ってやったら、その後連絡来なくなったけど。」

 

「他のメンバーは俺にかなり気を使ってたみたい。「薗部さん、上行って」って言ってくれたけど、自分自身なんだか煮え切らなくて。それで酔いも悪いもボーカリストとしての評価を試したくて違うレコード会社のオーディションをソロで受けたんです。」

 

優勝者は出なかったが、そこで製作部長の目に止まりデビューに向けての曲作りが始まった。1か月で30曲を作るという課題をこなした。

 

「音楽やって初めて壁にぶち当たったって感じ。俺が唄うテーマなんてそんなにないから、作っているうちに煮詰まって最後はもう課題をこなすだけのいい加減な曲になってた。」

 

それでも良き理解者の担当ディレクターと二人三脚で頑張り、やっと方向性が見えてきた時、事件が起こった。

薗部をオーディションで発掘した製作部長が横領事件を起こして退社。ディレクターもプライベートな事情により退社。新しい担当者とは、音楽性の違いから意見がぶつかり合い「売れセンの曲(当時はやっていた「愛は勝つ」とか「それが大事」の路線)が書けないなら、楽曲は他の作家に書かせるから歌だけやってみたら」と言われたという。

 

「歌手が悪いわけじゃない。でも俺は自分の作品を認めてもらいたいっていうのが本心だったからね。メジャーに行って有名になればいいってのとは明らかに違うと思ってたから。」

 

理想と現実の狭間で揺れながら、全てを白紙に戻し1からスタートする道を選んだ。

 

「デビューが決まってて地元の新聞やタウン誌で紹介してもらったり、みんなからも応援してもらってたから、申し訳なくてしばらく水戸に帰ってこれなかった。でも、一番うれしかったのはみんな、お帰りって暖かく迎えてくれたこと。俺って本当は才能ないのかな?とか業界の人間関係にうんざりしてたから、でも地元の友達はやっぱ違うなって。」

 

その時の悔しさと嬉しさを今でも薗部は忘れないという。心機一転、地元ラジオ局でパーソナリティーとして活動するなど幅を広げる一方、音楽活動も精力的に行っている。場所の大小を問わずに歌えるスペースがあればどこでも歌うという。

 

「お客さんと直でやりとりができるあの空間がたまらないんですよ。決して自分は唄が特別上手い訳じゃない。才能があるとも思ってない。ただ誰かに俺のメッセージを伝えたい、聞いてもらいたいだけなんですよ。まとめちゃえば音楽が好きなだけ。」

 

俺が人に何が出来るかっていうと音楽で表現することだって改めて思った。

 

メジャーもインディーズも関係ない。大切なのはやり続けること。それが俺のつっぱり!

 

学校でいえばクラスの問題児みたいな存在でいたいという。外見ではなく、内側から見せる情熱で人の心を揺さぶる。純粋な子供の心を忘れず、いい意味での永遠の悪ガキでいたいと語る。

 

「ある人が俺に言う。(もう子供じゃないんだから。)だから俺はこう言う。(俺は大人じゃないんだから)」

 

今はジャンルにこだらわず曲を書いている。

 

「いつも勉強。色んなものを見たり聞いたりね。でも影響されるのはやっぱり人だね。俺の財産だね。」

 

常に悩みを抱えたまま踊り続けてきた男が今、再び目の前の壁に立ち向かおうとしている。

 

「俺の詩は人生の応援歌。他のみゅーじしゃんとは違う薗部流で歌っていきたい。」

 

ロックンロールは音楽のジャンルではない。心で奏でる生き様なのだ。だから僕にとって薗部は、間違いなくロックンローラーの1人なのである。